2015年 7月16日〜31日
7月16日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 マーチンは裸でバスに乗せられているというのだ。

 もちろん、CFに裸では入れない。
 バスの運転手もそういって断るのだが、主人は

「断る権限はきみにはない。きみは送り迎えだけすればいい」

 といってバスに乗せる。

 マーチンは裸でバスに乗り、CFの門で正式に追い返される。そして、また裸でバスに乗らなければならない。
 可愛そうに彼はその間中、ペニスを握って小便を我慢しているらしい。

 おれは憤るより先に、後悔した。失敗した。おれのせいだ。


7月17日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 この衝突は必ず来るものだった。
 主人は趣味のために、マーチンに躾した。
 おれはその躾をぶっ壊した。主人がその反抗を許すはずがない。報復があると知っているべきだった。

(対立しなきゃダメなんだ)

 おれは落ち込みつつ考えた。マーチンを動かしてもダメなのだ。アホなのは主人なのだから、主人を諌めなければ解決しない。

「マキシムさん」

 おれはたわむれに言った。

「おれがまた地下に戻されて、薬殺されたら泣いてくれる?」

「はあ?」

 マキシムが目を剥いた。

「なんでそんな話に?」


7月18日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 おれは彼に言った。

 主人と対決するよりしかたがないが、犬に諫言する権利はない。ちょこっとパフォーマンスをやる。

「でも、伯爵はおれを面倒に思うかもしれない。捨てられるかもしれない」

 おれは少し甘ったれたかった。マキシムに見ず知らずの犬のためにそこまでするな、とすがられたかった。
 だが、彼はあっさり言った。

「おまえはおれの所有だから、伯爵の勝手にはならんよ」

 それに、と彼はおれの悪い足を軽く叩いた。

「それがヒロだからしかたないな」


7月19日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 翌日、おれは素っ裸で家を出た。

 首輪に素っ裸。ひさびさのワンワンスタイル。
 さすがに緊張したが、胸をはって歩いた。もともとおれは、地下のワン公だ。もっと情けないことを毎日やらされてきた身だ。

 好奇の目やひやかしを軽くあしらいつつ、くだんのバス停に行った。
 CFに行く犬たちの少しはずれに、裸の犬がうつむいて立っている。

「やあ、マーチン」

 おれは彼のそばに立った。マーチンは顔をあげなかった。だが、その首がドキリとこわばるのは見てとれた。


7月20日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

「やあ、わんちゃん」

 ふりむくと背の高い東洋人が、冷たく見ていた。エン氏であろう。ノーブルな顔立ちだが、情のなさそうな薄い唇をしていた。

「どこの子だ。見かけないね」

「ちょいと先から歩いてきました。散歩がてら」

 エン氏の唇が意地悪くゆがんだ。

「きみは露出狂か」

「裸族なんですよ。これがおれのフォーマルなんです。なにか問題でも?」

 そばにいた犬がブッと吹いた。
 エン氏はこの答えが気に入らなかったようだ。

「おまえを地下で見たことがあったかな」


7月21日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 おれは言った。

「おや、そうでしたかね。あの頃はよくナースの格好させられて、高貴な方のおむつを替えてましたが、あそこにいらっしゃいました?」

 そばにいた集団がまたブハッと噴いた。エン氏のこめかみにはっきりと静脈が浮かんだ。

「このあたりには来るな。うちの子の躾の邪魔だ」

「そういうわけにはいきませんよ。散歩はご主人様の命令でもありますから」

「おまえの主人は誰だ」

「マキシム・オストロフスキー」

 また集団が笑った。

「抗議するからな」

「ご自由に」

 ちょうどバスが来た。


7月22日  ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 運転手はおれを見て目を丸くした。

「増えた!」

「ああ。流行ってるんだ」

 彼はブツブツ言ったが、おれとマーチンを乗せた。
 バスのなかの連中も目を丸くしている。口笛もあがった。

「セクシー!」

「ヒロ、なにやって――」

 おれは彼らにかまわずマーチンの隣に座った。
 マーチンは一向に顔をあげない。先の問答を見ていたほかの犬たちが、おれを囲んではやした。

「朝から笑ったぜ」

「コントかよ」

「たいしたタマだな」

 おおむね好評だ。だが、眉をひそめる犬もいた。

「くだんねえことするなよ」


7月23日  ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 CFの門では「服を来て来い」とハスターティに阻まれ、おれとマーチンだけ追い返された。帰りのバスに乗って帰る。

 マーチンはうつむいたまま、ひとことも口をきかない。
 おれは言った。

「負けるなよ。明日も来る」

 マーチンはバス停をひとり降りていった。バス停にはあの主人が舌なめずりするように待っていた。
 バスが発車した時、マーチンが四つん這いにさせられるのを見た。

(……)

 電柱に犬が片足あげるポーズだ。あの野郎、本当に業ざらしだ。


7月24日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕 

「アクトーレスから電話来たか」

 おれが聞くと、マキシムは指をひらひらさせた。

「気にすんな。好きにやれ」

 おれは彼を抱きしめた。愛してる。言葉にできないほど。
 しかし、伯爵まで話が行ったら、さすがに好き勝手にはできない。あまり時間はない。

 とにかくあのわがまま主人に、改心させることが大事だ。犬には休息が必要なのだ。でなければすべてが壊れてしまうのだと。

 この作戦がうまくいくかどうかはわからないが、できることをやるしかない。
 だが、意外な伏兵があった。


7月25日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 おれは翌日も裸でマーチンの待つバス停に行った。

「おはようございます。エン様」

 エン氏は苦虫かみつぶした顔で、またイヤミを言おうとした。

「あ、ちょっと失礼」

 おれは彼の言葉を制し、路上に手をついた。ぱっと左足をあげ、小便をする。

「マーキング、マーキング。ここはおれのなわばりということで」

 気持ちよく放尿しながら、エン氏の顔がプルーンのようにゆがんでいるのを感じる。おれは彼に笑顔を向けた。

「四つん這いになると、本能が呼び覚まされますね。生命力が増強されます」


7月26日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 おれはその後、数日、彼の前に出るたびに、地下の恥知らずな犬としてふるまった。

 演技ばかりとはいえない。地下に長居すると、羞恥心なぞ擦り切れてしまう。やりすぎるとこうなるのだ。まあ、人にもよるけども。

 エン氏はおれにイヤ味を言ったり、怒鳴ったり、時に蹴り飛ばした。

 蹴られるぐらいなんでもない。こっちはそんなにやわじゃない。だが、おれのふるまいをエン氏以外にもこころよく思わない人間がいた。

「それ、やめてくれない? 吐き気がするよ」

 バスの中の犬だ。


7月27日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

その若い犬はイヤそうに言った。

「なんで、ここにきてまでそんな格好してるんだ。おれたちをバカにしてんのか」

「いや、これにはわけが」

「くだらねえことすんな。おれらは地下のやつらと違うんだ。恥知らず」

 だいたいわかった。
 この犬は身につまされてしまったのだ。忘れたい記憶が呼び覚まされたらしい。

「すまないが、こらえてくれ」

「おまえ、もうバスに乗るな。裸で入れないのに、なんで乗るんだ。規則違反だろ」

 そうだろ、とまわりに呼びかけた。

「そうだ。降りろ」

 数人が呼応した。


7月28日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 おれはここで一発、カッコイイ演説をぶつべきだった。

 だが、強い言葉が出ない。若い犬のヒリヒリした痛みがわかって、気持ちが鈍ってしまった。
 その無知な傲慢を叩き伏せてよいものか。

 一方、隣ではマーチンが泣いている。うつむく彼の耳が恥辱で赤くなっている。何か言わなければ――。

 その時、低い声が一喝した。

「うるせえな! 黙って乗ってろ。クソどもが」

 ふりむくと、最後部の座席にサー・コンラッド家のジルが腕を組んで、ふんぞりかえっていた。

「てめえもクソワン公だろ」


7月29日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 当然、若い犬はわめき返した。

「おれは規則違反だと言ってるんだ。これはCFに行くための送迎バスなんだぞ。行くつもりがないなら、乗るべきじゃない」

「規則違反なら、運転手が止める。てめえに降りろという権利はねえ。ぴいぴいうるせえよ」

「CFがなんのために――」

「てめえに降りろという権利はねえ」

 ジルが凄みのある目で睨んだ。

「お上品なワン公様、わかったかい?」

「……」

 降りようぜ、と誰かが言った。ほかの犬も応じた。

「降りる。止めてくれ」


7月30日  ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 数人の犬がバスを降りた。
 おれはジルに礼を言った。

「クソが」

 ジルは憮然と言った。

「場所柄をわきまえろ。朝からケツなんか見たくもねえ」

「……」

「むしろ、おまらが降りるべきだったんじゃねえか」

「そう言うなよ」

 おれは事情を話した。ジルは不愉快そうにそっぽをむいていたが、最後に鼻でわらった。

「まあ、無理だろうな。そんなことで改心するかよ。変態が。おまえがCF利用停止になるのがオチだ」

「……」

 翌日、果たして、そうなった。


7月31日  ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 マキシムはかなり抵抗してくれた。主人である伯爵と電話で長話をしたが、彼は首を振った。

「ひと月、CFの利用停止。くだんのお宅の付近には近づくなとさ」

これでも彼はねばったのだ。伯爵はおれの放逐にまで言及して彼を脅したらしい。

(面倒ごとはことごとく嫌う人だからなあ)

 しかし、あのバスにマーチンひとりにするのはつらい。
 それにそろそろひと月の期限が来てしまう。アドレナリンを用意するつもりはないが、彼との信頼は消える。おれにはどうしようもなくなってしまう。


←2015年7月前半          目次          2015年8月前半⇒



Copyright(C) FUMI SUZUKA All Rights Reserved